続きました尾道太郎です。
久しぶりですねこの仕様。続いては清水ヶ丘の演目。義母を介護している雅子の下にある日義姉が訪ねてくる。義母を老人ホームに入れるよう勧める義姉とそれを拒む雅子。「五時から三十円引き」というタイトルとは縁のなさそうな女の確執がインパクトのあるお話。
セットはパネルを配置して居間を作り上げている。舞台奥中央には廊下へ通じる出口。そしてそこから下手は玄関、上手は台所や義母の部屋という設定。今回、この廊下を見えるつくりにしている事が良かった。
というのも、家主の雅子が義母の世話のためやら何やらでしょっちゅう舞台からいなくなるのだ。これを廊下を作らずに舞台奥下手は玄関だの上手は台所だのやってたら少しわかりにくい。家の見取り図として頭の中に入りにくいんじゃないかと。じゃなくて
廊下を見せることによって、廊下を突き当たったら台所とか、その手前に義母の部屋があるとかのイメージがしやすいのだ。という舞台セットの上で行われるお話は、一人一人の役のウエイトがしっかりとあって、地に足のついたしっとりとした間のよい芝居でした。この「間」というのね、空気感とも言えるんだけど、これって先にも言ったリズムだと思うのよね。台詞の掛け合いのリズム。「この台詞はこう言う」というスタンスの応酬。それがリズムのよさにつながっている。
おそらくは台本自体がとても読み込みやすいんだろうね。悪く言えば昭和の昼ドラみたいな分かりやすさを内包している。(もちろん、中身はそんなに分かりいいものでもないけども)
台本の味というのがはっきりしている分、役者も思い切れる部分はあると思った。あと、義母役の子が大人用のおしめをしていたのには感心した。「こういうリアリティだよ! こういうんが欲しいんだよ!」てな気分でした。食べ物もきっちりとありものを使ってるし、ありものが万事良いと言う訳じゃないけど、この場合は正解だったように思う。せんべいをかじる音、アイスが溶けるという台詞もありものがあってこそ生きるものだと思う。
また、義母がコドモのために三十円引きされた惣菜のおつりを貯金しているというエピソードがあってこれは感動的なのだけど、その横で洗濯物をたたんでいる雅子さんにさらに感動を覚えた。なんていうか、ドラマと生活の同居がそこに見られたからだ。
義母の行動を始めてみる義姉にとっては感動的だろうが、それが日常になっている雅子は洗濯物の方が優先されるという面白さがあった。ラストは疑問符の残るところですが、(自分の葬式代を貯金しているところで終わった)それ含めても上出来でした。
なんせ、一人一人の役者がお互いを補完し合いながらうまく舞台を回している印象のお芝居でした。欲を言えば、一人一人がもっとスタンドプレーをしだしたらどうなるんだろうと。
二人三脚の足並みを徒競走のようにもっと前へという意識でやったらどうなるんだろうと、そんな風に思いました。
- 2010/02/10(水) 12:06:35|
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という事で呉まで行ってきました。午前中は音戸のカキ祭りに行ってきました。今年初カキです、尾道太郎です。
さて、「高校生による呉地区演劇フェスティバル」と銘打っての今回の公演。呉工業高校と清水ヶ丘高校が上演します。トップバッターは呉工業高校。ちなみに、この台本は市立呉高校演劇部の顧問が書いたもの。
幕が開くと教卓と机が10くらい。それから黒板、ゴミ箱。いわゆる教室のセット。パネルを置かなかったのはこの場合正解。舞台自体が小規模ホールのそれだったので、パネルを置いたら逆に窮屈だったろう。
その教室で行われる男一人芝居。退学前に荷物を取りに来た学生の独り言というものだが、さまざまな仕掛けを用意して話をつなげていこうという努力は見られる。見られるんだけど……残念でした。
声量も足りない、台詞と動きのアンバランスさ、動きも単調とくればちょっとあんまりだ。せめて台詞は覚えるべきだし、そもそもの練習量が推し量られる。技術的な問題も大いにあるだろうけど、今回に限って言えば台詞を覚えていない(ように見られた)のが一番の問題だと思う。
台詞を覚えたとして技術的なことを言うなら、動きと台詞をリズムに乗せることから考えよう。動く→台詞を吐く、動きながら台詞を吐く、台詞を吐く→動く、いずれにしてもその流れをひとつのリズムとして捉えていこう。そして、動かないのなら動かないと決めてしまおう。今日の役者がやっているのは下手なバイオリンと同じ。旋律を奏でてリズムをとり、音楽にしなきゃいけない。
動き自体にも同じことが言える。動く、動かないにリズムをつけたらもっと良くなる。「えっと、○○の席は……」という台詞で、舞台中央から教卓まで移動するには何歩で移動するのが気持ちいいのか? 動いて教卓まで言った後に台詞を言うことも出来るし、小走りで移動しながらでも良い。この二つの間に流れるリズムってのはまったく違う。これを意識したらよくなると思う。
少なくとも「台詞を通して言えたら御の字」という状態からは脱却するべきだ。それから、回想シーンはいちいち暗転してまでやる必要があったのかというと凄く疑わしい。おそらく台本の指定なのだろうが、ここは暗転無しで通してやったほうが集中力が持つ。持つし、この回想シーンは凄くとってつけた感じがした。
ラストのBGMと合間っての男臭さというのは比較的見れるので、もっと泥臭いパワフルな芝居を期待したいところです。動きの切れと地声の大きさというのは男子部員の方が得意な場合が多いと思うので、ここらで勝負してみるとよろしいかもよ。
という事で、続きます。
- 2010/02/10(水) 12:03:16|
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おかげさまでそれなりに上演依頼も着ております。どうも、夜にコーヒー飲むと逆に眠くなっちゃう尾道太郎です。
芝居において台本というのがひとつのウェイトを占めているのは異論無いと思います。そのウェイトの大小はこの場合置いておくとしても、それなりのウェイトがあるのは事実でしょう。だから、どんな台本を使うかってのは、どんな芝居が出来るかってことにつながると思います。
にんじんを使わなくてもカレーは出来ますが、カレー粉を使わなかったらカレーは出来ません。ネギを入れなくてもうどんは作れますが、うどん玉を入れなければそれはうどんではありません。
と、わけの分からない例えにももう慣れたでしょう。
そこで重要になってくるのが台本選びの力。これは座付き作家がいる団体でも同じ事。たとえば、ボクが主催している団体があるとして、その団体は毎回尾道作品を使う必要があるのかという事です。
(もっとも、それが団体のアイデンティティとなっていることも多いのですが)上演依頼をくれる団体の中にもいるんです。「これはこけそうだと」予感させる団体が。とりわけ「花の境界線」に上演依頼をくれる団体に多いのですが、
「なんとなく」選んでくれたと感じさせる団体です。(決め手に欠ける作品を出すほうが悪いとか言わないでくださいね)
んとね、「なんとなく」良いなぁと思って選んだ台本ですが、作る場合はその「なんとなく」を具体化しなきゃいけないって事が抜けてるんですよ。好きで選んでくれることは嬉しい事ですよ。でも、そこには圧倒的に欠けているものがあると思うんです。
それは、
どう作っていくかというプラン花の境界線を選んだ団体に聞きたい。さあ、これ、どう演出する? その役者陣で大丈夫? 見せ場はどこ? これで何を表現する? 具体的にどこが好き? その理由は? その他もろもろ。
正直なところ、花の境界線という作品は作りやすい部類の話じゃないと思う。特に高校生には難しいと思う。そこにあえて飛び込んでくるのは、具体的な戦略と愛着の元に……とは考えにくい。おそらくは「なんとなく」だろう。
おそらくは全国数多の高校演劇部が「なんとなく」台本を選んでいると思う。顧問が書いてくれるから、ネットが手軽だから……
そこからもう少し意味を見出してみてもいいんじゃないだろうか。顧問が書いてくれるのだったら、その作品のどういうところによさを感じるのだろうか。ネットで選ぶにしてもどういう作り方を考えるのか。
人数と時間だけが台本選びの制限じゃない。大道具が必要だとかそういうのんでも無い。
常人では決して吐くことの出来ない台詞があって、それゆえにレーゼドラマになった作品があるらしい。台本選びで一番欠けているのはこういうことじゃないだろうか。「花の境界線」で作家が取った行動を理解できる高校生は、きっと演劇はやっていないはずだ。
- 2010/01/19(火) 17:13:03|
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という事で、
無断上演されてました。しかも、2008年の3月に(爆 どうも、あけましておめでとうございます。尾道太郎です。
こんな出だしで申し訳ないんですが、そんな注文は無断上演した団体に言ってください。大丈夫です、ここで団体名出しても当たり障り内と思うので出しますと、足羽高等学校という所の演劇部がやらかしてくれたみたいです。もしかしたらボクの勘違いという事もあるやも知れませんのでその場合はご連絡ください。
ちなみに演目は花の境界線です。一番の売れっ子をまんまとやらかしてくれたみたいです。そんな腹が立つような出来栄えでもないですが、それでもなんだかモヤっとします。今思ったけど、モヤっとって言葉懐かしいね。
で、なんにモヤっとするかというと、自分の作品がなめられてると言う感じがするから。てか、ぶっちゃけ自分らも学生の頃は著作権料クソクラエなところがあったから分かる。たかだか、物語。たかだか紙の上に書かれたものという意識は無かったといえばうそになる。
だから、著作権料は取っていないんだけどさ。そういうのんを無視して、連絡もなしにやっていいわけ?
あのね、ぶっちゃけた話。これ、金取ってるんだったらこっそりやるってのはアリだと思う。むちゃくちゃだけど、学生で演劇やってる人たちは著作権料なんかにかけてる金は無い。もちろんそれなら自分たちで書けば良い話なんだけど、それが出来れば苦労はしないし、苦労して書くよりはネットから拾ってきたほうが幾分か楽だし効率的だ。
だから、ネット台本の多くは無料です。でもそれは善意から来るものです。
誰だってみんながみんな自分の書いたものを演じて欲しいし、その上でお金が入ってくるならそれに越したことは無い。基本的な著作権料が5000円としたら今頃ン十万儲けてる人だっています。正直な話、ボクだって今までに30件強の上演以来が着てるわけですから、少なく見積もっても15万はふんだくれると言う訳です。(もちろん有料にしてたら30件も上演依頼が着て無かったろうけど)
で、そういうのんを無視して勝手にやろうって根性が気に入らないのです。オメー5000円分チャラになったんだからその分礼は尽くしても文句は出ないんじゃない? 的な。ボク自身、著作権の意識は低いほうだと思っています。今回のことも怒りはしません。ただ、腑に落ちないだけです。
出来ることなら、今回のこともボクの勘違いであってもらいたいと思います。何らかの手違いでメールが届いてなかったとか。それなら、ボクが謝ってこの記事を消せば良いだけの話ですから。そうであれば良いと思います。
でもなんだね、無断上演されるほど有名になったのかね。
- 2010/01/19(火) 17:10:55|
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愛媛まで行ってきました。ウチの家内のmixiでの知り合いが出演しているというなんともいえないつながりでの観劇です。相変わらず、愛媛のドライバーはトロくさいです。どうも、愛車はどうがんばっても140キロまでしか出ない尾道太郎です。
筋としては、ある貧乏作家がこれまた貧乏若夫婦とクリスマスごっこをしちゃうというハートフルなストーリー。で、みんな死んじゃうんだけど、作家だけは悪魔のお偉いさんに生まれ変わっちゃうとか……
これ、台本読んだことあるから話が分かってるのよ。で、あまり好きなタイプの話じゃないのね。だから、正直乗り気じゃなかった。
でも、始まってみると役者の安定して見れること。とりわけ作家の安定感が抜群で、それに引っ張られるように他の役者の個性が生きる。
役者の配置、バランスはこの上ないくらいに良かったと思います。総合力の作家、純粋でまっすぐな感じの少女、アクのある表情が印象だった少年。狭い会場だったこともあって、とても役者と観客の距離が近い中、そのメリットを十分に生かすような空気感でした。本当に表情一つ一つまでがしっかりと観れるお芝居でした。
スタッフワークも文句なしで、照明は簡素ながらタイミングと光の当て方などしっかりとしており、音響も問題なし。正直言って、
どうしてこれだけ力のある団体がこの台本をそのままの形で上演するのかが疑問で仕方ありませんでした。というのもね、この作品。1984年を舞台にしているわけです。1984年を舞台にしていることは観客にも明示されていますが、どうしても台詞として耳なじみの無い言葉が出てくるわけです。これね、ぶっちゃけ1984年でなくても良いんですよ。60年代後半の学生運動とか扱ってるわけじゃないんだから、ただのクリスマスイブなんだから。これ、レジの必要があったんじゃないかと。
それから、ほんとに最後の最後に作家ならびに若夫婦が死んで天使が出てくるんですが、これもいかがなものかと。凄くとってつけたような印象を受けるんですよね。これまた、台本がそうだから仕方ないのですが。
だから、劇団としてこの台本を作る場合、
演出のやろうとしていることも役者の表現していることもスタッフワークの方向性も何一つ間違ってもないし、表現の強弱の問題でもない。ただ、いくら「現代の自分たちにも通じるものがある」といっても、この中途半端な年代の中途半端な題材の話を持ってくるんは違和感を感じる。
前半の若夫婦と貧乏作家のやり取りが素朴であればあるほど、最後の天使と作家(悪魔)のやり取りがうそ臭く見えて仕方が無かった。そして、前半の素朴さは100点に近い分、後半の落差が……天使役の人には申し訳ないが、この台本に天使はいらないというのがボクの持論です。
- 2009/12/21(月) 17:22:01|
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目下、先生も走るほどのあわただしさでございます。どうも尾道太郎です。今回はそうです。レビュー依頼が来ました。本人からです。……あのね、もう現役退いてから何年も経っちゃってるのよ俺。
病院の喫煙室を舞台に入院患者が織り成す群像劇。というのがこのお話の全体。入院患者は「新聞」「メール」などのあだ名をつけられており個性的な面々がそろう。個性的なキャラクターが均等に見せ場を作れるというのが群像劇の見所と思うんだけど、その点では登場人物の個性化は出来ていると思う。
その
個性的な面々が一同に会している中でも、会話の軸がぶれないのがこれまたすばらしい。おそらく舞台に乗っけたら、多人数の会話のみである程度間がつながるのではと思うほどにであるが、台本読んだだけじゃ正確なところは解らない。
が、群像劇の欠点として、その均質さ故にどの登場人物にも決定打がない。この物語も例に漏れない。何のつながりもない人々が縁あって病院の喫煙室で知り合い、わいわいやっていける。その中で個々人の悩みなりを共有したりしなかったりして…って、言っちゃえば結構リアルな友人付き合いみたいな感じかな。
手元に残るリアルさというのは評価できるけど、その分カタルシスは得られない。さらには、関係性はリアルなのは先にも書いたとおりだけど、初対面の相手との会話が引っかかる。やけにスムーズで、この手の仲間内と外部の人間の比率はもう少し考えても良いのではないかと思う。(とりわけパパの立ち位置は考えても良いかと、これを外部の人間にした事で冒頭に済ませた自己紹介を再びやる必要が出てくる)
また、物語内での時間の経過が分かりにくいため、これまた初対面と仲間内との溶け込み具合が把握しにくくなっている。まあ、これは実際に舞台を見たら違和感ないんだろうけど。
あまり笑いに頼ることもないし、物語として大きな波が…あるっちゃあるけど、見えにくいのは物語をとても上品に感じさせる。かと思えば、オーラスで簡単に人殺しちゃうところなんかは凄く俗っぽい。全体としてこのアンバランスさが一番の読後感でした。良く言えば、
役者しだいで上品にも猥雑にも出来る融通の利く台本だと。
あと、おそらくこの作家さん。演出家だと思いました。理由はなんとなく雰囲気なんですが、台本の節々に「この本はこうやる!」って意思みたいなものを感じました。それがどうというわけじゃありませんが、この台本をよその劇団がやる場合は役者は苦労しそうだなと、そんなことを思いました。
評価… ☆☆(基本的に台詞の構成や物語の構成に決定的な不備は無いです。前半から中盤にかけて多少中だるみしそうですが、後半は比較的(というと聞こえ悪いけど)俗っぽく観れます。おそらく自分が演出するなら、俗っぽいつくりにすると思います。)
- 2009/12/21(月) 17:17:12|
- 脚本レビュー
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どうも、お久しぶりです(爆)尾道太郎です。
突然ですが、最近人の書いた台本についてあれやこれやと言っています。んで、その感想の一つがこのタイトルにもあるようにト書きの間です。いや、ね、もちろんト書きですからそれ自体に間があるわけじゃなくてその動作なりに間があるわけなんですが、もう少し考えてみてください。
芝居の間、ないしテンポというのは台本を黙読しているときの間・テンポを元にしていますよね。台本読みの間にプラスアルファの要素があって芝居の間が出来上がると。だから、台本書きってのはテンポのいい会話なり落ち着かせた会話なりを意識して書いているわけですよね。台本読みの間と芝居の間が全く違うのなら、そういうこともしなくてもいいという話ですから。
という事は、もっと台本を書く段階で間をある程度規定しちゃえばいいんじゃネイノー。
なんというか、先の台本書きさんは「設計図としての台本であれこれ決めてしまう事の怖さ」というのを感じているみたいでした。それはそれとして分かります。確かに台本としての自由度が狭まればそれはイコール表現の幅の狭さを表します。そしてそれはそのまま台本の魅力が少ないということにも繋がりかねない怖さを持っています。
ですが、ちょっとココで間を取って欲しいときにト書きを入れるとか、そういうことくらいは良いんじゃないかと思うのです。
例えば表記として「あ、い」と「あ い」と「あ(そして)い」は全く別物という事です。「あ」と「い」のあいだに間をとりたかったら(そして)と入れるのが一番分かりやすい方法だという事です。
どうしても台本として分かりやすい仕様にしてしまうと、表現の幅が狭くなりがちですが、これは作者自身がどの程度の幅を持たせたいかを明確に意識する事で変わってくると思います。台本書きとして究極的に表現の幅を規定しようとするなら同時に演出をするのが手っ取り早いでしょう。ぎゃくに、広げるなら台本を書かないのが一番です。(これは本末転倒ですが)
手前味噌で申し訳ないんですが拙作「ォヴェ」の中にある「マッサゲ」という作品のラスト。女が最後の台詞を言う前に「携帯電話を持ち替えて」というト書きを入れています。ボクとしてはここでは携帯電話を持ち帰るだけの間が必要だと感じているからです。
例えば、ココを「窓の外は白み始めている」ってト書きにするとまた違って見えるでしょう。間を規定するト書きってのは別に動作に限った事じゃないのです。そのト書きを動作にあらわさなくてもアウトプットする間が出来るはずです。これは役者経験のある人なら分かるんじゃないでしょうか。
一見無駄のように見えるようなト書きでも、それは実は台本自体のテンポを規定しているのかも知れません。
大切なのは、表現の幅の広い狭いじゃなくて表現の質だとつくづく思うのです。
- 2009/11/17(火) 10:32:32|
- 台本創作
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どうも、覚書です。
なんかさ、芝居作りのあれこれを考えていてふと思うことがあるわけよ、それが「ちゃんと芝居が作れる環境ってどれだけあるだろう」って事。この
「ちゃんと」ってのがミソで、芝居作りってのはいろんなしがらみにとらわれ易い。
練習時間の調整や個々人の考え方、レベル、その他もろもろ。例えば、あなたが参加している演出が頼りない場合。その演出をサポートするどころか、文句ばかり言って練習場の雰囲気を悪くするなどなど。こういう事。
芝居作りは芝居作り以外の事を解決する事に思いのほか時間をとられる。別に、そのしがらみをどうこうする事は考えちゃいない。宿命みたいなもんだと思っている。作る側にどんな事情があるにせよ、観る側からしたら一つ芝居があるだけだから。作る側の思い入れほど観る方に不要なものは無い。もちろん、作る側はそれでじったんばったんしたんだろうが、そしてそれが作る側個々人のかけがえの無いものになっていくのだろうが、それとこれとは別。
ものづくりをしている人間として、出来たものがすべてって言う潔さは持っていたい。「ちゃんと」芝居作りが出来ませんでした。ってのは言い訳臭くてかっこ悪い。その言い訳で救われる事も知っているし、救われた事もある。でも、それは自分から言うべきじゃない。いろんな事情を言ってしまえばキリが無い。
こんな事をいっていられるのも、芝居作りに参加してないからこそ。どうしたって中に入っちゃえばそうも言ってられなくなる。
でもね、少し考えてみて欲しい。今、例えば嫌いなやつがいるとか好きなやつがいるとか、合う合わないだとか、このクソ演出とか、何であいつがとか、芝居より塾が大事かよとか、バイトが大事かよとか、思いつく言い草をいったん置いてね。芝居のことを考えてみたらどうだろう? 今作っている芝居のことを、誰それがどうとか抜きにして。
もし、行き詰ったら缶コーヒーでも飲みながら。ゆっくりと深呼吸してさ。ネタの一つでも考えてみたらどうだろう? 客を笑わす事じゃなくて、練習場の照明担当を笑わす事に全力を傾けるのはどうだろう? 演出の要求をほっぽらかして、自分が感動できるものを表現してみるのはどうだろう?
ボクは、芝居作りから離れて台本書きというポジションになってから、とても伸び伸びと表現できるようになりました。それでも時間的な、気力体力的な制限は付いて回りますが、楽しくやってます。
しゃーないじゃん。どういう縁があってかあんたはその団体でその演目の芝居をやるんだから。それ以外は考えられないし、それ以外はない。そう思えたなら一番なんだけど、そんなスーパーマンばかりじゃないよね。
分かってる、分かってるから、ちょっと一息。
あなたが頑張ってるのも頑張れてないのもちゃんと分かってる。
- 2009/11/17(火) 10:27:56|
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役者にもっとも必要なものって何でしょう? どうも、秋の夜長をさらさら尾道太郎です。
結論から言ってしまうと、
「表現にポジティブであること」です。うちの家内には「露悪趣味」と言われましたが、おおむねその通りです。「俺ってこんななんだぜー」ってやつです。みもふたもないですからもう少し説明しますと、表現することに前向きであること、表現したいという欲求に正直であることです。
なぜこれかってね、役者が表現しなかったら芝居は成り立ちません。そして、演劇という表現手法の花形ともいえる役者でも、表現の苦手な役者ってのはいます。それも、方法が未熟とか言うレベルではなくて表現すること自体が苦手な役者がいます。ボクもそのタイプです。舞台上において自分をさらけ出すのが苦手なタイプです。
ちなみに、裏方にはこの資質は関係ありません。裏方の表現は役者ありきなので裏方自身の表現どうこうということが求められることは少ないからです。
演出をしているころ、苦手なタイプの役者ってのがいました。それが、正しい答えを模索する役者でした。演出の答えに一番近いような、それでいて現時点で自分の出来るそれなりの表現を持ってくる役者が苦手でした。
正しくないことはない演技をする役者が苦手でした。
なんで表現にポジティブなことを役者の資質としてあげるかというと、結局は演出の持っている表現の答えが正しいかどうかという性質のものではないからです。なんて言えば良いのか、
どの方向に投げても良いからボールを50メートル投げたらオッケーみたいな感じでしょうか。だから、表現に正しい間違いはないのです。
演出が考えることは、そして客が見ることってのは、
表現の整合性がついているかって事と表現が届いてるかって事だけです。その上で、これは嫌いだの好きだのってのはあると思います。ただ、最低限芝居として必要なのはこれです。
と、考えるボクが役者に求めるのは、出し切ること。表現したいという欲求に正直なことです。もっと言えば考えないことです。あれこれ考えると表現は縮まってきます。「これ、面白くね?」ってのがもっとも必要なのが役者だと思いますから、その面白いことがボクにとって面白いかどうかは二の次でいいのです。それを考え出すと、怖くて演技なんか出来ませんしね。
だから、どっかの芝居見て「上手いな」と思う役者がいたら、その役者はきっと「馬鹿」です。開けっぴろげに「俺ってこんなだぜ」と言える素養があるということです。
ないものねだりですが、その「馬鹿」さ加減がうらやましいものです。
ちなみに、裏方の中でも役者的なポジションに最も近いのは作家です。役者の素養はないボクですが、作家としては何とか細々とやってこれています。
ノートパソコンの画面が相手なら思う存分表現が出来るということで、その状態を的確に表すとしたら根暗だという残念な結果をはじき出してしまうのです。
- 2009/11/17(火) 10:18:27|
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という事で予定通り行ってきました、尾道大学。早速内容に入ります。短気短足尾道太郎です。
会場は大学のはずれにある体育館。だだっ広い中に椅子がまばら。なかなかシビアな会場だなと思いながら開演を待ちます。
お話のストーリーとしては、ある家にいる貧乏神が家主を幸福にするために福の神になろうとします。その時続いていた長雨を鎮めるために家主が生け贄になってしまいます。ようやく福の神になった貧乏神ですが、家主を助けることが出来ませんでした。その後、村は洪水で流され福の神だけが残りましたとさ。
……めでてくねぇ。それに、俺が書くとすげぇ味気ない。
漫画のコマ割りのような場転をつなげて物語は展開していく。舞台も舞台上と下(客席と同一平面)で分かれており、手法としては間違ってない。が、少しスマートさが足りない気もした。もうちょっと切り替えが早ければ気持ちよく観れたんだけど。ちょっと、客の立場から間をつながないといけない部分はあった。
とはいえ、その切り替えの部分を除けば役者は充分面白かった。多分、脚本と役者のレベルがマッチしてるんだろう。本がこうやりたいという事を役者がよく分かっている印象でした。話自体が漫画やアニメのような雰囲気なので、良くも悪くもその話にどっぷりつかっている感じでした。
相変わらず誉めてんのかけなしてんのか分からないのでひとつ具体的に誉めますが、ドロメっていう主人公の家主とは相容れない役がいるんですが、この役者がよかったです。話的にも役者的にもちゃんと流れが出来ていました。逆を言うと、他の役についてはちょっと話の練り方が無理矢理な部分があったようです。とりわけ、洪水→死ぬの怖い→生け贄となる前段階。雨が降り続いてる→ちょっと降りすぎじゃねぇ?ってのが流れとしてもう少しあっても良かったかなと思いました。
だから、役者の感情の流れとしても、途端に狂気じみてくる。そこに例え流れがあっても見ている分には急に映りました。
それから、音響。少々雨の音が鬱陶しい。BGMが少ない気がしました。話のメインが雨なので演出も音響も雨音にこだわったのでしょうが、これ、そういう話じゃないでしょ? 雨の音がしとしとっていう魅せる芝居じゃないでしょ? 「はい、これ面白いよ! ドーン!」って芝居でしょ?
もっと俗っぽく作っても良かったんじゃないかな。それから、切り替えの部分にもかかってくるけど、暗転曲のタイミングが遅い。無いときもあったけど、これめいただけない。無音の切り替えがいけないわけじゃないけど、そういう芝居じゃないと思った。
久しぶりにちゃんとした作・演出の芝居を見れて良かったです。一時間半という尺も絶妙でしたが、もう少しストーリーを練り直して丁寧に作って一時間半で収めることが出来ればもっと良くなると思いましたし、多分出来るでしょう。
でも、この芝居のA級戦犯は実際に降り始めた雨でしょう。芝居のラストでは雨は上がってるのに、上がってるのにぃぃぃぃぃ!
ザーザー(雨音)
- 2009/11/06(金) 19:53:24|
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ということで行ってきました福山大学の大学祭、その名も「三蔵祭」……久しぶりの大学祭でわくわくしました。尾道太郎です。15時開場の公演ですが、11時には福大へ。相変わらずなボクですが、開演時間がまったく分からなかったのもどうかと思います。
しかも、直前に「Lill Be」(スペルあってるかな?)のライブがあり、開場が30分も押すという始末。風が冷たいからとっとと会場入りさせてくれても良かったのにと思いました。そんな思いをしながら会場入り。
会場は、手作り感あふれる舞台。平台を組んで照明も一からの手作り。ありもので作る舞台としてはそれなりなものが出来ている感じを受けました。
芝居はというと新撰組の隊士三人の友情物語。無名の隊士があんなこともあったこんなこともあったと言いながら、これからの身の振り方を考えるというストーリー。ぶっちゃけていうと、お話のつくりが悪い。
主に過去回想が主軸になっているから時間軸が前へ進まないし、その過去回想もいくつものエピソードを小出しにしているから一つ一つはどうでもいい。全体通して「いろいろあったけど」的な印象だけで、わざわざ暗転しながら小出しにエピソードを羅列するほどの必要性は感じなかった。
さらに、悪いのが役者。どうも舞台の上でごにょごにょやっている印象しか残らなかった。客席に届かない。もちろん、話の悪さを考えると仕方のない事なのかもしれない。癖の強い男役者に比べて割合淡白な女役者のほうがまとまって見ることが出来た。声が出ていて元気があるのだけが見所っちゃ見所。あと、殺陣は全体的にもう少し何とかならなかったのだろうか。殺陣がひとつの見所になっていると思うのだけど、まあ、かっこ悪い。
逆に裏方はそれなり。もちろん、設備がないから何かやろうと思ってもままならないのだろうけど、芝居の出来からするとよくがんばっていたと思う。若干、音響がウザイ場面もあったけど、手作りの舞台で一番がんばれる(設備に依存しにくい)音響ががんばるのは間違いじゃないと思う。
もっとも、裏方が良いと言われるのは裏方としては失格なんだけど。
全体通して一時間で収めたのは評価できるけど、お話か役者にもうひとつプラスアルファを望みたいなぁと思った。お話がもう少し丁寧に練られていたら、あるいは役者の感情表現がもう少しうまく出来ていたら……そう考えるともったいない。
芝居の雰囲気からエンターテイメント系をやりたい団体だろうという印象だったけど、それにしても役者の表現(特に感情表現)には物足りなさを感じました。ちゃんとした台本を使ってしっかりと舞台を作っていくのも良いんではないでしょうか。そういう役者であり脚本であり裏方だったと思います。
久しぶりの観劇で比較的ライトな作品に当たれたのはラッキーでした。次は、尾道大学の学祭に行くつもりです。
次は、もう少し見ごたえのあるものを期待してます。
- 2009/10/27(火) 17:13:08|
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どうも、本当にお久しぶりですコンチクショウ。結婚しました尾道太郎です。な、もんで報告がてらコラムを一本。
田舎で芝居を売るというタイトルですが、んなこと地方の劇団がいろいろ頭使ってやってくれてますんでいまさら現役退いたおじいちゃんが口出すことでもないんですが、まあ聞いちゃって。
田舎で芝居を売るって難しいよね。どうして難しいかって、そりゃ客がいないから。東京じゃなんだかんだいって人が集まる。圧倒的に観劇人口が多い。観る人が多かったら公演だって毎週のようにある。需要が多けりゃ供給も増える。簡単な理屈です。
で、田舎はそれができない。圧倒的に観劇人口が少ない。たとえば、尾道。尾道で一回でも演劇を見たことのある人、これはそれなりにいるかもしれない。じゃあ二回、じゃあ三回と増やしていくとどうだろう。ここが東京とは大きく違う。
習慣的に観劇する人口が少ないのです。まえに「田舎は前衛的なものを受け入れる土壌がない」ってなことを言いましたが、そもそも田舎は芝居を観る土壌がないのです。
だから、
田舎の劇団がやらなきゃいけないことは、習慣的に観劇するお客さんを作り出すことからはじめなきゃいけない。んで、これが田舎で芝居を売るときの一番の困難になっているのは、皆さんの方がよくわかってらっしゃるでしょう。
観劇を習慣付けるにはどうするか。それには、まずもって習慣的に公演を打たないことには始まりません。都会で観劇人口が多いのには「見たいときに見れる」という事も大きく作用してるからです。そのために、ひと月に一回は演劇の公演を打っていただきます。できれば同じ会場で。
尾道を例に出すと、会場の手配自体は可能でしょう。が、ソフトが間に合いません。劇団二つと大学サークル、地元の高校演劇部を合わせてもひと月一公演は難しいでしょう。多くの地方がそうだと思います。だから、こういう企画はソフトが間に合わなくて挫折しちゃうんですね。んで、結局なんたら演劇祭と称して一日二日のイベントに終始すると。
イベントが悪いと言うわけじゃなく、続かないのが悪いのです。でもソフトがないという地方自治体はどうするか。簡単なことです。
ソフトをよそから引っ張ってくるのです。尾道なら福山、三原から。あるいはちょっと遠くの東広島から。これならひと月に一公演は可能でしょう。しかもそれなりのクオリティを期待することもできる。(苦肉の策で尾道の高校演劇部に頼むよりは)
毎月芝居がそこであるということを認知させれば、それなりに観劇人口も増えるでしょう。近隣の地方自治体の劇団を招致すれば、その劇団のお客さんも来てくれるでしょう。客層が広がればまた新たな潜在的な客層も増えるでしょう。
映画の町尾道にも去年から映画館がオープンしました。いろいろなイベントをやってるみたいですが、苦戦しているみたいです。映画でこれです。田舎と演劇はどれほどの愛称の悪さかと思う現実です。
- 2009/10/17(土) 14:35:48|
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役者がある役をするときに、その役の気持ちを理解する事が必要だという考えがあります。どうも、この理解ってやつは得意でした。尾道太郎です。
んで、この考えに則って話を進めていくと、極端に言えば自分の経験してない事は演じれないという事に行き着きます。彼女イナイ暦=年齢のドウテー君はモテてモテてウハウハな男の役は演じれないということです。
これは、ある意味では正解ですがある意味では間違っていると思います。要は、想像力の問題だと思うのです。経験だけで表現が成り立つのなら、世のおっさんおばさんは名優で中高生はつまらない役者という事になりますからね。もちろん、役者において経験がモノをいう部分てのは少なくないと思いますが、そればかりじゃない。
役の気持ちを理解する事が必要と考える根本ってのは、つまりは
「分からないものを伝える事が出来ない」という考えでしょう。モテてモテてウハウハな男の女性観はボクには分かりませんから、この役はボクには無理です。ってことですね。
んで、モテてモテてウハウハな男の女性観が分かるような男は、多分演劇なんてやってないでしょうから、この役をやる役者ってのはなかなかいないんでしょうね。となっちゃうわけよ。いやいや、そんなに演劇は不自由じゃない。
これが、論説文の試験だったら10ある気持ちを10理解しなければ駄目だけど、演劇だから。見る人によってどうにでも解釈できちゃうからね。ココからはさじ加減の問題で、10ある気持ちの5でも理解できてりゃ良いとか、それらしく見えたら理解なんてクソクラエだとか、そういうゆとりも出来る。
多分、
国語の勉強がよく出来る人なんかは、「正しく理解する」事に意識がいっちゃいがちなんだと思う。で、「正しく表現する」のがおろそかになると。ほんとにこの辺はさじ加減というか程度の問題なんだけど、
10理解して3表現するのと3理解して3表現するのって表現としては同じなわけだよね。トータルで見たら前者のほうが優秀に見えちゃうけど、実際の演技見たらこの両者ってイーブンなんだよね。
もちろん、役者それぞれのスタイルがあるから、気持ちを作る事は否定しているわけじゃない。10理解して3表現するタイプの役者だっていて良い。そういう人は、表現のレベルを上げていけば良い。でも、ココで言いたいのは、気持ちを作るというこの10で満足しちゃいけないって事。
表現てのはどうにでも融通がきくぶん、計算できない。だから、気持ちから丁寧に作っていくのが正攻法になっちゃう。これが、役の気持ちを理解する必要があるって考えが正しいって言った理由。
ただ、地道にコツコツやれば実るかというとそれもまた怪しいってのが、間違いって言った理由です。
物書きだって同じ。理解すりゃいいってもんじゃない。
- 2009/04/10(金) 19:17:27|
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さて、いかがお過ごしでしょうか尾道太郎です。相変わらず花粉症です。飯食うと息が出来ないほど鼻が詰まっております。こういうのも「息が詰まってご飯が喉を通らない」とか言うのかな。
さて、学生の皆さんは年度が変わって新学年。先輩が後輩になって後輩が先輩になるというそんな季節。新歓公演に向けて練習をしている最中でしょうか。そんな中、新しく団体のリーダーになった人間がやりたがることといえばこれ。
「基礎力の向上」はい、ドーン。基礎なんてべらぼうめ、どの面下げて言ってやがるんだ。もちろん、言っている事は正しい、発声や動きなどの役者の訓練てのは大事だ。基礎力の向上は(それができるとしたら)団体のレベルアップに繋がる。順序としても、基礎練習→台本の練習という流れも合っている。
でも、ドーンなのよ。というのもね、
そもそもこれを読んでいる学生さんたちには基礎練習→台本の練習をするだけの時間がないということ。基礎なんてみっちりちゃんとやり出したらキリが無い。基礎練に時間とられて台本の練習がおろそかになりましたなんて本末転倒もはなはだしい。これが、一点。
んで、台本の練習ってのは基礎が出来てないとできないかというとそういうもんでもない。声が出るだの活舌が良いだの、切れのある動きだのというのは役者の表現自体とは切り離して考えたほうがいい。
出来るに越した事は無いが、出来ないから表現が間違うというわけじゃない。(伝わりにくくなるかもしれないが)
こういう言い方をすると、「伝わらなければ意味が無いじゃん」とか言う人がいるけど、それは極論だよ。
伝えるために台本の練習をするのだから、その必要に応じて基礎の部分てのは身についてくるはず。これが一点。
そして、基礎練習ってのは時間対効果が非常に悪いということ。例えば、Aというシーンで大声を出すという練習をやるのに、発声練習をやって台本の練習につなげるのと、台本の練習をみっちりやるのはどちらが有効かってことだ。もちろん、喉を慣らす程度の発声練習とこの場合の発声練習とじゃ、程度が違うからそれ分かって。
そもそも、基礎基本が活きるような演技を出来ているのかどうか怪しんでみるのも良いかもしれない。ぶっちゃけ、俺が声出たり活舌よくなっても役者として使えるかといえば違うと思う。
表現が一番で基礎基本ってのはあくまで手段だろう。それを基礎基本を一番にしちゃう怖さってのはあると思う。大道具で言う所の「作り物の怖さ」みたいな部分がある。つまり、基礎練やって満足しちゃわないかって事。
基礎練習が悪いわけじゃない、ただ、基礎練習をやったから「はいレベルアップ」みたいな簡単な事にはならないということ。
基礎が大事なのは分かってるのよ。でも基礎だけじゃ芝居は出来ないのよね。地道な努力ってのはアピールしちゃったら地道でもなんでもないんだよ。
(アピールするための努力ってのはアリだけど)
- 2009/04/10(金) 19:15:47|
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どうも、VS「J1」……カープは開幕戦連勝でスタートしましたね、尾道太郎です。今回、ちょっとした疑問を一つ。
はりトラなんかで積極的に感想募集してる人たちがいますよね。あれ、褒めて欲しいんでしょ? 作品を改善したいとか微塵も思ってないよね? いや、「褒めて欲しい」は言いすぎだとしても、どうしても作品を改善する気があるとは思えない。
そもそも、不特定多数のそれも掲示板での感想や指摘なんて、どれだけ明確に相手に届くかなんてたかがしれてる。もし、書き込むほうと受け取るほうの双方に届けよう・受け取ろうという気持ちがあったとしても、意見交換がスムーズに行きにくい掲示板のやり取りで作品の質を上げるのは難しい。
よく、「上達するためには?」という質問の答えに「意見を求める」というのがあるけど、これは不特定多数の意見のことじゃない。二・三人でいい。ずっと前にも言ったけど、
不特定多数の意見を全部盛り込むのは不可能に近い。意見を聞いてもらえる相手ってのは、少なくとも、あなたがどんなものを書きたいのかを理解してくれる相手じゃないと駄目。理解してくれるのと好き嫌いは別よ? 「これを書きたいのは分かるけど、嫌い」って事もあるからね?
ただ、不特定多数の意見にもちゃんと意味があって、それは作品の位置づけを明確にしてくれるって事。身近な二人に聞いて「面白い」という評価だったものが、不特定多数の十人に聞いたら全く逆だということもあるわけだ。
さらには、不特定多数と言えど、アンケートではなくて感想という形だと、ある程度の年齢や性別の判断がつく。だから、「この作品は中高生の女の子に人気なんだな」という判断が出来る。この判断は確実じゃないけど、あながち間違っても無いだろう。
なんにせよ、意見を求めるには相手のレベルと自分のレベルがあってたほうが、上手くいく。とくに、作品に厳しい意見を求める場合は。じゃないと、意見を求めるどころか、喧嘩になっちゃうだろうからね。
感想なり意見なりをもらっても、結局書き直すのは自分なんだから、自分の力量以上のことは出来ない。でも、感想なり意見なりが全く無いのがいいかといえばそれは違う。小説の添削を経験して、俺が感じた事がこれ。目の前で作品がどんどんよくなる様は見ていて爽快。ただ、
相手を選ぼう。それだけだな。
一晩寝るだけで高収入という広告がよく舞い込むようになった。ブログのコメント欄ということは、これも意見か感想か……そうか、一晩か……
- 2009/04/10(金) 19:13:51|
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芝居作りに関わる人間って、作る事に一生懸命で売る事を考えない人がつくづく多いと思います。どうも、最近芝居買ってません。尾道太郎です。
良いかい? 前に、高校演劇じゃ勝負に徹する高校が少ないといったけど、フツーの劇団だって似たようなもんだ。客が呼べない、呼ぶ戦略が見えない。現役退いちゃった俺とかに言われるのは癪だと思うけど、見えないもんは見えない。とりわけ、何がしたいのか分からない公演が多い。
自分が実際に関わった芝居もそうだけど、売る方のコンセプトは皆無だった。「笑って笑って最後に泣ける」じゃないけど、そういったコンセプトは無かった。作る方としては似たような事をやっているのにも関わらずだ。(だからといって、上記のコンセプトを使えというわけじゃない)
例えばよ、その芝居の何に魅力があるのかって話よね。いわゆる商品の魅力ってヤツよ。魅力的な台本なのか、役者が魅力的なのか、スタッフワークが凄いのか。何が売りなの? あなたの芝居は。ってことよ。
んで、こう聞かれると困るわけよね。何も売りなんて無いもんね。考えてないもんねー。そりゃそうだよ、作る方がコンセプトなんて持って作ってないんだから、売る方だってどれがコンセプトかわかんないもんね。当たり前だ。
売る戦略売る戦略と言っているけど、作る方だって戦略の無い事が多い。たいてい、「いいものを作る」って漠然と考えている事がある。んで、「いいものってなんなのよ」って聞くと、「そこはニュアンスだから」とぼかす。(こんな書き方してるけど、実話じゃないからね)
何年か前に、派手なアクションをコンセプトにした芝居を見たが、出来はどうあれそういった思い切りの良さは買いだ。「これをやる」という明確なものがあると、売る戦略云々ってのもそうだけど、
客としてみた場合に受け取りやすい。確かにコンセプトをつけて銘打ってやるってのは難しい側面もある。「笑って笑って最後に泣ける」と銘打って、クスリともしない舞台なんて最悪だ。最悪だけど、何がしたかったかはよく見える。それだけで芝居の最悪さがよくなるかと言えばそうじゃないが、理解は出来る。理解できれば、許せる部分も出てくる。(かもしれない)
なんにせよ、「これ面白くね?」だけで客に芝居を見せるのはそろそろ脱却してもいい団体もあるんじゃないだろうか。もちろん、その「面白くね?」で面白い芝居を作る団体もいいんだけどね。いいんだけど…ごにょごにょ。
芝居を作る一つ一つは、「これ面白くね?」の精神なんだよね。でも、それを全体の総意としてやっちゃうとまずいって言うか、届きにくいんじゃないかな。だって、役者の「面白くね?」と照明の「面白くね?」は多分違う。だから、いろんなものが混雑したままのものを客に見せても分かりにくいんじゃないの?
要は、客の俺をどうしたいのよあんたは! ってことよ。
- 2009/04/10(金) 19:12:06|
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なんてタイトルではじめてみた今回のコラム。どうも、尾道太郎です。なぜって、「ザ・マジック・アワー」をDVDで見たからなのだ。つくづく、三谷作品はこの仕掛けが面白いと感じました。そういや、井上ひさし氏も「父と暮らせば」の後書きで、「劇場の機知」という言い方を用いていましたが、これも仕掛けと言い換えることが出来るかと思います。
例えば、仕掛けの代表的なものを上げていくと、夢オチ、実は幽霊、劇中劇、一人多役、勘違いなどがあげられます。ごめんなさい、本当はもっとあるのでしょうが、乏しい発想力ではこんなもんです。まあ、台本書きの皆さんだったら一度は思いついたことがあるのではないでしょうか。
ボクの悪い癖ですが、この仕掛けの面白さに目を向けない部分があると自分では思っています。例えば、先のような仕掛けのパターンというのはどうしても使い古されていて、それ自体の魅力はそれほどでもありません。もしかしたら、使いようによっては全体を陳腐にする恐れもあります。
ですが、
仕掛けというのはそれ自体陳腐なものかもしれなくても、「仕掛ける」ということを作家の意識させる部分ではとても意味のあることと思います。つまりは、客をいかにだますかということ。いかに乗せるかということです。
「ああ、また夢オチかよ」と客に思われないようにするにはどうしたらいいか。そこを意識するかどうかで、仕掛けの面白さは変わってくると思います。
ボクがだめなのは、パターン通りの仕掛けしか使わないから。ホットケーキミックス使って、ホットケーキしか焼かない人間だから。
そして、仕掛けの何が良いって、仕掛けに沿って物語が固まってくるからです。夢オチを使うなら、それをどれだけ魅力的にするか。劇中劇を使うなら、劇中劇を存在させる意味が必要になります。勘違いも一つの勘違いから次の勘違いへと発展させていくなんてのは、三谷作品でも良く見られますよね。マジック・アワーもそういう仕掛けが面白く際立った作品でした。
逆に仕掛けで失敗する事もあるでしょう。仕掛けに振り回される。仕掛けにひこずられる。なんてのはよくある話ですし、仕掛けを使うにもある程度の筆力というものは必要でしょう。登場人物をこう動かしたい→仕掛けに頼るというのが失敗の大きな理由かと思われます。これを逆に、仕掛けがこれ→登場人物はこう動くんじゃないかな。というのが本当なんでしょうがね。
んでね、ボクが考えるに、仕掛けの面白さをメインに持ってくるならやっぱり最低一時間は必要じゃないかと思う。それだけ、仕掛け自体のお膳立てが必要になってくるからね。プラス、物語の進行とあわせたら一時間以上は欲しいなと。
ボクは真似できないけど、
仕掛けの面白さってのをメインに持ってきたものはたいてい完成度が高い。緻密な書き方をしている人じゃないと、こういう書き方ってのは出来ないんだなとつくづく感じます。
まあ、書き方の出来る出来ないよりも、作品の出来る出来ないを考えたほうが、今のボクには意味のあることだろうという突っ込みはありがたく遠慮しておきます。
- 2009/03/20(金) 10:33:12|
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花粉症……つらいです。尾道太郎です。ずずずずずず(鼻水をすする音)
「伝わらなくてもいい」と書きましたが、よその台本書きさんは
「一言一句間違うな、台詞は絶対だ」とかおっしゃる方もいらっしゃるようですから、あくまでボクの台本ということで考えてみてください。
もちろん、ボクの台本だって「一言一句間違うな、台詞は絶対だ〜」……って部分もあったり無かったりします。ですがね、本番の舞台で一言一句間違わないってのは不可能ですし、もっと言うとその台詞を伝える必然性がなければ、言わなくてもいいとさえ思います。
作家の伝えたい物事ってのはそのニュアンスなり空気なんですから、それが表現できていればある程度何をどうやっても問題は無いと思うのです。特にト書きに書かれてある台詞なんてのは聞こえなくてもぶっちゃけいいと思います。ボクも時たまやりますが、ト書きに「さよなら」とか書くけど、ニュアンスだけで結構です。むしろ、
そこに「さよなら」って書く事によって表現の幅が縮まらないかが心配です。ボクなんか、
もっと台本の表現から自由になればいいのにと思うこともしばしばです。特に役者。台詞を届けることを必要以上に意識しすぎていて表現が追いつかないという場面を良く見ます。極端な言い方をすると、台詞なんて届かなくても良いんですよ。「それらしく」見えれば。(逆に絶対に届けなきゃいけない台詞もありますが)
要は、台詞の意図をどれだけ読み取れるかって事ですよね。そういうのが難しく感じる人は、仕方ないから「伝えたうえでそれらしく見せる」って方法を努力するしかないんだろうね。
台本上でどこまでが重要でどこまでがそうでないかってのは、台本によっても違うし人によってまちまちだけど、ひょっとしたら台本書いた事のある人にしか分からないんじゃいかとも思えたりする。んでもって、その中の一部のボクのような人間は「台詞を一言一句間違わずに言うより大切な事がある」と思ってる。
ともすれば役者は台詞至上主義に陥りがちだ。それは台本書きが言葉至上主義に陥るのと同じで、言葉の持つ意味ってのは理解に近い分容易だ。だから安易に飛びつく。でも、意味だけ届けたってそんなことじゃお芝居は成り立たない。意味だけで成り立つものはそれは芝居以外の何かだ。ちょうど数年前に見た社会科の授業のような……
台本書きの視点から言わせてもらうと、伝わらなくてもいい台詞はある。
伝えようとする作り手の姿勢は買いだが、台詞以上に伝えて欲しいニュアンスを台本書きは持ってる。難しい。とめどなくあふれ出る鼻水を止めるくらい難しい問題だ。
(実際は、とある舞台の拙作の上演ビデオを見ていて、ト書きに書いてあった台詞が凄い違和感を持って届けられていた事に由来する。まあ、コラムの発端なんてこんなもんこんなもん)
- 2009/03/20(金) 10:31:25|
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お久しぶりです。更新サボってました。そしてこれからもサボります。どうも、尾道太郎です。
皆さん、台本を書いてください。面白くなくても結構です。上演しなくても結構です。論理が破綻してても、登場人物が異常に多くても結構です。台本を書いてください。俺は、書けません。これからも書けそうにありません。
はい、酔ってます。
無理です。もう無理だよねー。だってさ、台本書くのってしんどくなっちゃったんだもん。もっと楽で楽しい事見つけちゃったんだもん。ねー。エネルギーをそれ一本に使うのって馬鹿らしいしね。馬鹿らしいくらい、台本書くのにエネルギー使ってたってわけよ俺は。(だから、片手間に書いたようなクソ台本にムカついてたのね)
んでね、そん時は「エネルギーを注いだ分だけ面白くなる」って思ってた節があったのね。いくら「技術が物を言う世界だ」とか言ってたとしても、心のどっかではそういう風に思ってたんだろうね。でもさ、そのエネルギーがなくなったわけよ。もうだめ。もう無理。
幸いにも台本を書く事でいろいろな地域の団体に上演してもらえる事も出来たし、知り合いもたくさん出来たし彼女も出来た。俺が台本を書く事で得たものってのは結構でかい。台本についてのあれこれをこのページでのたまう事によって出来た知り合いもいる。レビュー依頼してくれたマゾ(と書いて猛者と読む)もいる。
ありがとう。
本当なら、台本書きと自称するなら、この感情を物語で表現するのが表現者としての正しいあり方なんだろうと思う。思ってきた。俺は、エンターテイメントよりは表現をしたいと思って台本を書いてきた。そして、表現を伝える手段の一つにエンターテイメントを使おうとした。俺の基本的なスタンスはこうだ。
ほかの人は違ってもいい。エンターテイメントでも芸術でもいい。三年に一本でもいい。一週間に一本でもいい。台本を書いてください。誰のためでもない、あなたのために書いてください。書こうと思って、書ききった物語はどんな日記よりもそのときのあなたを表現していますから。だから、俺の作品を読み返すと、恥ずかしいです。
遅くとも二ヶ月にいっぺんは台本を書き上げていた楽静さんの更新が極端に遅くなりました。「年をとるってのはこういうことだな」と思いながら、それでも第一線で頑張って欲しいと思いました。今の俺の戦い方は、頑張ってる人に頑張って欲しいと思うことです。そうなりました。
台本を書いてください。
そして、もし良かったら読ませてください。つまらなかったらばっさり切り捨てます。
これも、俺の応援の一つです。
- 2009/02/20(金) 18:05:22|
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ほらさ、mixiニュースとかにリンク貼ってある日記見てると、結構感情論が多くてびっくりです。ま、日記だからそうなのかなーとか思うんだけど、どうもどうも酔っ払ってもいたって冷静です。尾道太郎です。
台本書きでもおんなじで、感情が先走ってる物語を時々目にする。
たまに感想掲示板に「これこれはこういう事情があって(こういう思いがあって)書いたものです」という書き込みを見ると、「これを書いた人は本気だったんだなぁ」と思います。で、そういう作品に限って出来があまりよくないのもデフォです。
よく、「アイデアを寝かせる」ってあるじゃないですか。それと同じで「想い」も寝かさなきゃいけないと思うんですよね。例えば身内に不幸があるとか、悲惨なニュースを見るとか、面白い映画を見るとか、そういうものに触発されて作品を書こうって時には、やっぱりそれをある程度冷静に見れるまでの時間が必要なんじゃないかと。
結構聞かれる事で、「作家には感受性が必要だ」とかボクは聞くんですけど。これだって、怪しいもんです。感受性クソクラエです。発想やアイデア、着眼点においては個々人の差異は認められると思いますが、
物事に関する感受性はそれほどたいした違いは無いんじゃないかとも思えます。受け取る能力はみな同じで、受け取る方向が違うだけのような……それも含めて感受性というのなら、それは必要なのかも知れませんけど。
ただね、インプットとアウトプットをごっちゃに考えてる人が案外多い。もっと言えば、「発想が面白ければ面白い作品が書ける」という考えの人が多い。
「想いとか感情の大きさ=作品の面白さ」となっている人が多い。もちろん、発想の面白さや想いの大きさは無いよりあったほうがいい。あったほうがいいが、それはアウトプットの上手い下手とは別物だ。これは、台本書きもそうだけど役者に対して特に言いたい。
ともすれば気持ちを作る事に重きを置きがちな役者は、結構アウトプットとインプットをごっちゃにしている感がある。
気持ちと表現は別物だ。例えば、悲しい気持ちは出来ているのだけど悲しく見えなきゃ、それは役者として失格になる。
(総じて、上手い役者ほど気持ちの作り方もそうだけど、どう見えるかに気を使っている人が多い)
ちょっと考えれば分かる話でも、案外と分かっていない人が多いと思う。材料がそろっただけで料理が出来るかって話だ。肉とにんじんとたまねぎとジャガイモとカレールーがそろっただけでカレーが出来ないのと同じ。そこには下ごしらえや調理という過程が必要なわけだ。
インプットだけで名作が書けるなら、携帯小説に感動できるようなお子ちゃまは、みんな大作家さんになれるでしょう。インプットだけで書いたものの最たるものが冒頭に出したmixiニュースの日記達でしょうね。
- 2008/10/13(月) 16:40:58|
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実はもう一本あったんだなーってオチです。季節柄風邪など引いてないでしょうか、尾道太郎です。そろそろ本気出していきます。→
作品はココと言う事で、あらすじはなし。(何が「と言う事で」だ?)
登場人物は、信也、桜、結花、雄太の四人。信也のアパートに三人がやってくるところから物語りは始まる。どうやら、PVとやらを見るためらしい。つまりは、バンドか何かをやってるメンバーなんだろう。会話のノリからプロのバンドではない様子。……というのも、このPVと言う単語以外にこの四人の関係を表している物がない。
また、結花と雄太は付き合っていて、桜は信也の事が好きみたいだが信也には音信不通の彼女がいるという事は読み取れるのだけど、それを提示しただけでそれ以上の進展がない。何が言いたいかと言うと、「四人の状態を表すだけの物語になっている」ということ。これが二時間芝居の序章なら話は分かるが、30分芝居の全体となると話が見えない。
オチまで言ってしまうと、雄太が間違えて持ってきたDVD(AV)に、信也の彼女が出演していたという終わらせ方なんだけど、これも良く分からない。情報提示がバラバラでまとまりに欠けると言うのが一番の問題点。
「一人暮らしの主人公の所に友人が訪ねてくるんだな。PVって事は、バンドか何かやってるんだろうな。会話のノリからインディーズなんだろうな。結花と雄太は付き合ってるのか。ふーん。何か、信也は訳ありげだな。信也にはこのメンバーではない彼女がいるんですね。桜は信也の事が好きなのか。信也と信也の彼女は二ヶ月くらい音信普通なのね。あれ? AVにその彼女出演してる?」
まー、ボクの思考の流れはこういう感じでした。
情報が物語に乗っかって流れないで、情報が情報として独自に流れちゃってる。そこかしこに行間はちりばめられているが、行間を読み取るだけの間合いが無い。もっと親切設計でも文句は言われないはず。
情報のとっちらかり感もさるものだが、それを助長するかのような多人数会話の奔放さ。まとまりの悪さ、リズムの悪さが顕著に見て取れる。二人での会話がそれなりにスマートな分、余計にそう見える。
作者としては裏設定も込みで書いているから分かるだろうが、この手の「察してください」作品は、もう少し親切設計でもいい。そして、この物語を親切設計で書こうとしたら、30分じゃ到底足らない事はすぐに分かるだろう。もし、あくまで雰囲気だけで勝負するつもりなら、もう少し押さえるポイントを絞るべき。
二作、この作家さんの作品を読ませてもらって感じたドライな印象ってのは、この人の持ち味だと思うから、そこを崩さずにどう修正するか。
勢いや感情に任せない分、情報提示の仕方を整理してスマートに見せると良くなるかと思われる。評価… ☆(現時点では妥当な所か。はっきりとした見せ場や笑いに走らない所にフェアプレー精神が見え隠れ。ただし、正攻法にしては弱い部分も見える)
- 2008/10/13(月) 16:39:13|
- 脚本レビュー
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お疲れ様です生きててスミマセン息しててスミマセン、尾道太郎です。レビュー依頼受けてます。今回もその類です。しかも本人からです。ウア。→
作品はココあらすじ
受験に失敗して睡眠薬自殺を試みる妹のサチ。そこへ、料理学校へ行っている姉のナオが帰ってくる。姉を邪険にする妹と、たまの帰省くらい客人としてもてなせという姉。二人の会話はやがて進路のことに。「何のために大学に行くの?」問いかける姉に、返す言葉のない妹。淡々としている会話劇。
まず、この台本の見所を一つあげるとすれば、その空気感。情緒に訴える台詞ではなく、ナチュラルな台詞の作り出す小気味いい会話が心地いい。盛り上がりに欠けると言えばそうだが、それを補って余りある雰囲気のよさ。
また、ストーリーのところどころに「間」がちりばめられており、会話のリズムのよさを引き出している。しかし、これは逆を言えば、間の取り方しだいではそれまでの会話のリズムを崩してしまう恐れもあるだろう。ここら辺は台本だけじゃ判断しきれない難しいところ。
雑多な情報提示の中に姉と妹の関係性がうまく描かれていて、少人数芝居のオーソドックスな形になっている。見せ場とそれ以外をはっきり作らない構成のためか、こういう技術的な面が光る。なんにしても、的が「妹の進路」という一点に絞られて、それをあらわすために「姉の進路」という媒体を使っている。シンプルな構図だが、よくハマっているし分かりやすい。
20〜30分の尺の物語では、こういったシンプルな問題設定と構図を持ってくるのが、受け手にとっては一番分かりやすい部類だと思う。中途半端な尺で、あれもこれも詰め込みたくなるかもしれないが、それをしない成功例の一つがこれ。
ただ、苦手なコーヒーを飲むが睡眠薬に抗えずに眠ってしまう妹を尻目に、その妹の机の引き出しを物色して薬袋や大学の合格通知を見ちゃう姉の行動は、それはリアリティに欠けるんじゃないだろうか。
それから、その後に母親に電話をするのだけど、母親には妹が睡眠薬自殺をしようとしていたことは言わないんじゃないだろうか。
この場合、母親という三人目の登場人物を出すことなく終わらせる事が出来たなら、もう少し無理なく終わったのではないだろうか。
姉が母親と会話する事によって、それまで姉×妹という空気感が崩れてしまうような気がした。終わらす事を意識しないで、自然体のまま着地できる形があればもっと良くなるのではと思えるような作品でした。
総評… ☆☆(こんなもん。30分前後という尺が読み物としてはベストフィット、芝居としてやるには中途半端。オムニバスの最後に持ってくるにはちょうどいいかも知れない)
- 2008/10/13(月) 16:37:00|
- 脚本レビュー
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さて、あなたは900×1800のパネルに色をつけなければいけません。色調は、どうしようかな〜、水色にしよう。さて、あなたはどのようにパネルに色をつけますか? どうも、水色なんてファンキーなパネル作ったことの無い尾道太郎です。
ここで、「え? 普通に水色のペンキで塗ればいいじゃん」と思ったあなたはちょっと考えが浅い。何のために「パネルに色を塗る」ではなくて「パネルに色をつける」って書いているのか。水色の布をパネルに張ってもいいんじゃないの? 水色の画用紙をパネルに貼ってもいいんじゃないの?
ほかにも、パネル自体を白く塗っておいて上から水色の光を当てるとか、そういうことは眼中に無いわけよね。先の「普通に水色のペンキで塗ればいいじゃん」って言う人は。
あとね、「普通に」ってどういう風なのが普通なの? 例えば、ペンキの材質にしたってそこらのホームセンター行けば無数にあるよね。水性・油性・アクリル・ウレタンなどなど。塗る方法だって、刷毛塗りからローラー、吹きつけいろいろあるけどどうよ?
それらもろもろのことを用途に合わせて使い分けれるってのが一番いいんだけど、なかなかそこまで頭が回らない事もあるかもしれない。でも、これはパネルに色をつける場合だけの話じゃなくて、すべてにおいて言えることだから「頭が回らない」の一言で済ませる問題でもない。とりわけ、裏方さんはこれらの予備知識があるのとないのじゃやる事なす事が大きく違う。
パネルに色をつける事一つでこれだけの広がりが出てくるわけだから、芝居作りの方法なんて無限にある。例えば、教室のセットを作る際にパネルを使う事が多いけど、そのうちの一つにコンセントを取り付けてあると幾分かそれっぽくなる。壁に配線カバーをはわせて見るものいいかもしれない。
こういうのは見た目だけの問題じゃない。例えば、平台を作るとしたときに丈夫さと軽さのバランスをどこで取るか。持ち運びやすさはどうだろうか? そういうところまで考える事が出来るだろうか? セットを組んだはいいが、ばらすのに往生するなんて事は無いだろうか? 知っている演劇人は非常に凝ったセットを作って重かったって顰蹙買っただのという話を聞いた事があるけど、どうだろうか?
道具の仕事は、作るまでが大事じゃないんだよ。むしろ、作った後の方が大事なんじゃないかな。だから、作るのに一生懸命な道具担当よりも、作った後の事を考えてなるだけ楽をしようとする道具担当の方が案外うまくいく場合もある。
さて、あなたは900×1800のパネルに色をつけなければいけません。色調は水色です。さて、あなたはどのようにパネルに色をつけますか?
俺「そのパネル、どういう風に使うんです?」
雲の上という設定なので、空です。
俺「そんなん、照明にやらせときゃいいだろうがよ!」
とまあ、案外こんなもんです。
- 2008/08/08(金) 18:09:54|
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タバコ一箱が1000円になるってね。禁煙して良かった〜。と、思う反面、巷の嫌煙家の皆様や政治家の皆様の論調がはなに付くところ。諸外国じゃタバコ1000円とか普通なんだってとかさ。喫煙者のマナーが悪いとかさ。タバコは百害あって一利なしとかさ。
別に俺は吸わないからタバコが値上がりしようがどうしようがいいんだけど、諸外国の基準に乗っかるのならそれ相応の税金の使い方をしてくれるんだろうなコンチクショウ。とか思うし、そもそもそれぞれの国で事情や条件も違うのにやれ「あそこの国はいいだの」言ってる理由が分らん。
マナーの問題にしたってどんな趣味趣向のグループにだってマナーの悪い奴ってのはいるんだから放って置いたらいいのに。それって、酒癖悪い奴を捕まえて、酒税上げようってのと同じ理屈なんだけど分らないかなぁ。それとか、太ってる奴捕まえて食用油の値段上げようって理屈と同じなんだけど、反対しないのかな、嫌煙家の皆様は。
で、一番ほっとけって思うのは健康被害。副流煙がどうとか言うのなら分煙すればいい話で、それが増税の理由に直結するとは思えない。喫煙者の健康を思っての事だったらなおの事余計なお世話。そもそも本当に健康のことを思うんだったらタバコ自体を禁止にすれば早い話。
こういう論調を聞くたびに頭悪いなぁと思うのが、そもそもタバコ税の増税と喫煙者のマナーや健康被害は論点がずれているって事。もちろん、諸外国のタバコの値段なんて全く関係ない。「喫煙者のマナーが悪いので増税します」「健康に良くないので増税します」といい大人が言っちゃいけない。それは小学生の論理。
じゃなくて、増税するのは「金がない」からであって例えば「社会福祉費が捻出できないのでタバコ税上げます」という理屈なら通る。もちろん、反対する人は反対するだろうけど、小学生の論理でごり押しするよりはよっぽどスマートだと思うんだけどね。もっとも、タバコが1000円になったら禁煙する人続出でたいした増税にならないかもという危惧もあるけど。
嫌煙家の皆様も自分が嫌いだから増税オッケーという単純な論調だけでなくて、その自分が嫌いなタバコを好きな人もいるって事をもう少し分ってくれたらいいのにね。非喫煙者がマジョリティになって嫌煙家が大きな顔して「あたしは正しいんだ」みたいな感じになってるけど、あんたがたそれは結構乱暴な論理だって気づいてる?
俺はタバコ税上がってもいいの。一箱1000円だろうが2000円だろうがいいのよ、吸わないから。ただ、この巷の理屈の通し方は暴挙と言わざるを得ない。似たような理屈の通し方で、「エコ対策で深夜のコンビニ規制」なんてあったけど、これもそうよ。無茶なの。筋が通ってないの。多分深夜にコンビニが無いなら無いで生活できるんだけど、この筋の通し方はいただけないの。
こうね。マジョリティが中心で絶対っていう風潮ってあるよね。たしかにマジョリティ中心になるのはある程度分かるけど、タバコ1000円はやりすぎじゃない?いきなり三倍って。それガソリンに置き換えてみなよ。タバコ税上げやすい言うてもちょっとどうよ?
てな具合にmixiニュース見ながらもにょもにょしてました。
- 2008/08/08(金) 18:08:59|
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という事で行ってきました呉まで。毎年ロングラン公演をしている清水ヶ丘高校です。昨年は見ることが出来なかったので今年はリベンジのつもりで行ってきました。
あらすじ
おじいちゃんのお葬式を抜け出して友達と虫取りをしている女の子。そこでめだかが死んでしまい、女の子達はめだかのお葬式を始めてしまう。楽しい気分ではじめたお葬式ごっこがやがて少女におじいちゃんの死を分らせるに至って……みたいなお話。
ま、面白いです。台本が。彼女はしきりに「葬式抜け出すなんて無茶な」と言ってましたが、細かな設定やらなんやらは置いといて、言っている事ややっている事なんかは共感できますし面白いと思いました。
ボクが一番いいなと思ったのが、やっぱり笑えるって事。そしてソツの無い事。台本が面白いのはソツの無い台本選びが出来ている証拠。そして、それを面白いを思わせてくれるのはソツの無い演技が出来ている証拠じゃないかなと思う。
もっとも、何を持ってソツが無いかなんて人それぞれだから良くわかんないって言われたらそれまでだけど。何ていうかな、中くらいってのが一番適当な言葉。もっと具体的にいうと、県大会で入賞はするけど中国大会には進めないレベル。多分、面白くなくない類の演劇の一つの例。
なにぶん大きな粗は見当たらないけど、よくよく見れば小さな粗はそこそこあるレベル。
そういうレベルだからこそ、この自主公演の身近さを味わえるって部分もある。実は、この芝居の会場が高校の中庭という暴挙。このクソ暑いのにだ。それをうちわを配り、麦茶を配り、席の配置をこだわりして公演を打つ。呉の高校の自主公演の何がいいって、この等身大感がいい。
ただ、中庭=自然光という事で照明の出番が全くなかったのが当然といえば当然だけど、その会場設定に甘えてなかったのかなとも思える。夕暮れになっていく情景なんて当然自然光じゃ表せないしね。どうにかできなかったのかなと。
ま、細かな事は抜きにして、とても面白い芝居でした。
今から褒めます。あのね、ココの芝居って凄くのめり込みにくいのね。分りやすくいうと適正な距離感を保てるって事なんだけど、つかずはなれずの絶妙な距離がある気がする。前回の「すきま風」は会場が大きいから偶発的なのかと思ったけど、今回の客との距離が近い会場でもその距離感は健在。多分、団体のカラーなんだろうなと思う。
んで、いい気分になりながら「多分、この団体の作る芝居は一番にはならないんだろうな」とぼんやり思った尾道太郎でした。
細かい事は、蛇足があれば蛇足にゆだねます。なかったら、勘弁して。
- 2008/07/21(月) 18:07:16|
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